宝口樋川について
宝口とは地域名で、那覇市首里儀保の一部とその周囲の地域になります。
宝口樋川は崖下に位置し、その崖は琉球石灰岩のあいかた積みで頑丈に整備されています。
側を流れるのは真嘉比川で、そこに流れ込むように湧き出ています。
1800年代前半製造。
現在飲むことはできないのでご注意ください。
市指定史跡 指定 1976(昭和51)年9月28日
入り口
琉球王国時代から昭和初期にかけての紙漉所跡。宝口(たからぐち)の紙漉所ともいう。
琉球における紙漉の技術は、大見武憑武(おおみたけひょうぶ)が1686年に鹿児島(かごしま)へ赴き、造紙法を修行した。帰国後の1695年に首里金城村(しゅりかなぐすくむら)に宅地を賜り、杉原紙(すいばらがみ)・百田紙(ももたがみ)を漉いたことがはじまりである(金城の紙漉所)。1717年に祖慶清寄(そけいせいき)・比嘉乗昌(ひがじょうしょう)らが芭蕉紙(ばしょうし)を初めて作り、翌年、王府の援助を受けて、首里山川(やまがわ)村に一宅を設け、紙漉所とした(山川の紙漉所)。以来、カジノキ・糸芭蕉(いとばしょう)・青雁皮(あおがんぴ)を原料に、色半紙・広紙・奉書紙・百田紙・藁紙なども作られた。
宝口の紙漉所は、1840年に首里儀保(ぎぼ)村の一角「宝口」に家屋を建て製紙区域とし、製造が途絶えていた百田紙の製作を行わせたことがはじまりである。これにより宝口では百田紙、山川では芭蕉紙が作られたとされる。
紙漉は王府の役所「紙座(かみざ)」の管理のもとで行われたが、1879年(明治12)の沖縄県設置後も、この一帯では民間の手で紙漉が続けられた。
宝口樋川は、真嘉比川沿いの急ながけの下に設けられています。そのため、背後は沖縄独特のあいかた積みと呼ばれる石積みで、極めて頑丈につくられています。樋川の前は石畳になっています。現在あるコンクリートの水槽は、飲料水と洗濯用に水を分けたもので、昭和初期につくられました。もとは入口にあった「宝樋」碑によると、1807年、この樋川を開いたのは当蔵村の平民たちで、その功績によって位階を賜り、その後、1842年に大修理を加えた赤田村の平民宮城は、士分に取り立てられました。かつては、ジブガーフィージャーと呼ばれ、昔から豊かな水に恵まれ、干ばつにもかれることのない重宝な樋川でした。近年は樋川の背後が開発され、一時期より水量が落ちていますが、市内でも指折りの湧水量を誇っていることに変わりはありません。
碑の表は、1807年(嘉慶17)年に記されたものです。それによると、この地によい水が湧くことは知られていましたが、場所が不便なことや、そんなに水に困っていなかったので、顧みられることはありませんでした。しかし、当蔵村の宮城筑登之親雲上は、その湧水を惜しみ、賛同者24名と共に資金を出し合い、道を整え、樋川を設けました。その功績により、宮城筑登之親雲上は2階級特進、他の者もそれぞれ階級昇進しました。また、宝口という地に湧く樋川なので、「宝樋」と名付けられたことも記されています。碑の裏は、1842年(道光22)年に記されています。それによると、この樋川は水も豊かでたいへん重宝していたが、大雨によって壊れてしまいました。そこで、村中で相談の上、修理しようとしましたが、費用が足りずに困りました。そこへ、赤田村の宮城筑登之親雲上の母親から費用負担の申し出があったので、無事に工事を進めることができ、もとのようにすばらしい樋川がよみがえった、と記されています。「宝樋」碑は、沖縄戦によって失われてしまいましたが、1986(昭和61)年に真嘉比川改修工事によってその河床から大部分が発見されました。しかし、現物はかなり破壊され、摩耗も激しいため、新たに復元することになりました。そこで、那覇市文化財調査審議会の委員で構成された「宝口樋川碑文・復元検討会」の検討を踏まえ、書家渡久地龍雲氏に筆耕を依頼して、このように復元しています
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